2023年4月、経済産業省は「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のための実務参照資料」(以下「実務参照資料」といいます。)を公表しました。

実務参照資料は、2022年9月に日本政府が公表した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(以下「人権尊重ガイドライン」といいます。)で企業に求められる取組内容のうち、「人権方針の策定」と「人権への負の影響の特定・評価」について、具体的かつ実務的な形で詳細な解説や事例を紹介するものです。

特にこれから取組を始める企業の実務担当者にとって、まず何から始めればよいかを掴みやすい内容であるため、紹介します。

ポイント

骨子

  • 実務参照資料は、人権尊重ガイドラインに沿って取組を行う企業がまず検討する、「人権方針の策定」や「人権への負の影響の特定・評価」について詳細な解説や事例を掲載するものです。
  • 「人権方針の策定」に関しては、人権方針に記載する項目の例とその解説が、「人権への負の影響の特定・評価」に関してはサプライチェーン上のどこに高いリスクがあるかを洗い出すステップの解説とそのための参考資料が提供されています。
  • 実務参照資料は、「多くの中小企業をはじめ、これから本格的に人権尊重の取組を進めていく企業にとって、実務レベルで何をすればよいのかイメージ」しやすいように意識して作成されており(実務参照資料2頁第2段落参照)、まだ本格的に取組を行っていない企業においても、人権尊重ガイドラインに沿った人権尊重に関する取組を始めることが急務となっているといえます。

解説

実務参照資料の概要

人権尊重ガイドラインとの関係

日本政府が2022年9月に公表した人権尊重ガイドラインは、企業に求められる人権尊重の取組について、「日本で事業活動を行う企業の実態に即して、具体的かつわかりやすく解説し」たもの(人権尊重ガイドライン1.1)です。しかし、これから人権尊重ガイドラインに沿って本格的に人権尊重の取組を進めていく企業にとっては、実務レベルで何をすればよいのかイメージしにくい可能性があり、人権尊重ガイドラインでは、経産省により取組の内容をより具体的かつ実践的な形で示すための資料の作成・公表が予告されていました(人権尊重ガイドライン1.1)。

実務参照資料は人権尊重ガイドラインで作成・公表が予告されていた資料です。多くの中小企業をはじめこれから本格的に人権尊重の取組を進めていく企業を念頭において人権尊重の取組の内容をより具体的かつ実務的な形で実施フローの例を示しており、人権尊重ガイドラインと併せて参照される資料です。

実務参照資料のカバー範囲

人権尊重ガイドラインは、企業が人権尊重責任を果たすための取組として、次の3つを求めています(ガイドライン2.1)。
1.人権方針の策定・公表
2.人権デュー・ディリジェンス(以下「人権DD」といいます。)の実施
3.自社が人権への負の影響を引き起こし又は助長している場合における救済
実務参照資料は、このうち、企業がまず行うこととなる人権方針の策定(上記1)と、人権DD(上記2)の最初のステップである「人権への負の影響の特定・評価」について、検討ポイントや実施フローの例を示しています。

図1:人権尊重の取組の全体像及び実務参照資料のカバー範囲

画像1

(実務参照資料1頁 図1より抜粋)

実務参照資料の活用方法

人権尊重の取組に唯一の正解はなく、どのような取組が適切か、企業は自らの状況等を踏まえながら検討していく必要があります。このため、実務参照資料は、企業による人権尊重の取組について、実務参照資料の記載のとおりやらなければならない、記載事項だけやっておけばいいという趣旨のものではなく、自社が行い得る適切な取組について模索していく必要がある点には注意が必要です。

また、人権DDの第一歩である「人権への負の影響の特定・評価」に関する項では、次の2つの別添資料が参照されており、よりイメージを持って作業しやすい工夫がなされています。

(別添1)参考資料

(別添2)負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価

人権方針の策定(人権尊重責任に関するコミットメント(約束)の表明)

実務参照資料の概要

「人権方針」は、企業が、その人権尊重責任を果たすという企業によるコミットメント(約束)を企業の内外のステークホルダーに向けて明確に示すものです(人権尊重ガイドライン2.1.1)。

人権尊重ガイドラインは、人権方針に関して「策定に際しての留意点」(人権尊重ガイドライン3.1)と「策定後の留意点」(人権尊重ガイドライン3.2)を定めるところ、実務参照資料が取り扱うのは前者の「策定に際しての留意点」です。

策定プロセスとポイント

実務参照資料では、これから人権方針を策定する企業を念頭において、策定プロセスの例を紹介しています。

1.自社の現状把握

  • 社内各部門からの知見収集、ステークホルダーとの対話・協議等を通じた、自社が関与し得る人権侵害リスクについての確認(人権尊重ガイドライン1)

2.人権方針案作成

  • 上記も踏まえつつ、記載すべき項目を検討

3.経営陣の承認

  • 企業のトップを含む経営陣(例:取締役会)の承認(人権尊重ガイドライン3)

4.公開・周知等

  • 自社ホームページへの掲載など一般への公開(人権尊重ガイドライン1)
  • 従業員、取引先、関係者への周知(人権尊重ガイドライン1)

なお、上記③番は、例として挙げられている取締役会に限らず、「法定の機関ではない、企業のトップを含む経営会議やサスティナビリティ委員会といった任意の会議体による承認を経て策定することも考えられる」ことも示されています(実務参照資料3頁注4)。

記載項目例

人権尊重ガイドラインは、人権方針は次の5つの要件を満たす必要があることを定めています(人権尊重ガイドライン3)。記載項目に関する要件は、このうち次の3番のみです。

<人権方針の5要件>

1.企業のトップを含む経営陣で承認されていること

2.企業内外の専門的な情報・知見を参照した上で作成されていること

3.従業員、取引先、及び企業の事業、製品又はサービスに直接関わる他の関係者に対する人権尊重への企業の期待が明記されていること

4.一般に公開されており、全ての従業員、取引先及び他の関係者にむけて社内外にわたり周知されていること

5.企業全体に人権方針を定着させるために必要な事業方針及び手続に、人権方針が反映されていること

実務参照資料は、上記の③番の必須の記載項目に加えて、人権方針に盛り込むことが考えられる項目を以下のとおり例示しています[i]

<人権方針に記載することが考えられる項目の例>

1.位置付け

  • 人権方針は、特にこれから策定する企業の従業員等にとっては、その位置付けが明確ではないことも考えられます。そこで、人権方針が自社にとってどのような文書であるのかを明確にするため、人権方針にその位置付けを記載することが考えられます。
  • 例えば、人権方針は、人権尊重の取組について企業の基本的な考え方を示すものであり(ガイドライン1)、企業のあるべき姿勢等を定める経営理念や行動指針等と密接に関わります。そのため、こうした企業経営における重要な文書と人権方針の関係を検討し、両者の一貫性を担保することで、社内における位置付けが明確になり、より人権方針を社内に定着させることに繋がります(ガイドライン3.1)。そこで、経営理念や行動指針等と人権方針の関係性について記載することが考えられます。

2.適用範囲

  • 企業は、その事業活動を通じて人権尊重に取り組む必要があり、一般に、人権方針は、一般的な社内規程と異なり、自社だけではなく自社が支配権を有する他の企業にも適用されると考えられます。他方で、場合によっては、例えば、グループ会社に適用される人権方針とは別に、そのグループ内の特定の企業が自社のために追加的な人権方針を策定することなども考えられます。
  • そこで、人権方針の適用範囲を明確にすることが考えられます。グループ会社にも自社の人権方針を適用する場合には、「グループ会社」の定義を明らかにすることが望ましいと考えられます。

3.期待の明示

  • 人権方針を実践していくためには、取引先を含む関係者の協力が不可欠であり、人権方針では、従業員や取引先をはじめとする関係者に対する人権尊重への期待を明らかにすることが求められます(ガイドライン3)。
  • 例えば、自社の事業・製品・サービスと直接関連する可能性がある関係者に対して、人権を尊重することを期待する旨を記載することが考えられます。また、自社の人権方針に対する理解や支持を期待すると明示することも考えられます。

4.国際的に認められた人権を尊重する旨のコミットメントの表明

  • 人権尊重責任を果たしていく自社の姿勢を明確にし、社内外のステークホルダーの理解を得る観点等から、国際的に認められた人権を尊重する旨のコミットメント(約束)を表明することが考えられます。
  • まず、企業が尊重責任を負う「国際的に認められた人権」には、少なくとも、国際人権章典で表明されたもの、及び、「労働における基本的原則及び権利に関するILOで宣言」に挙げられた基本的権利に関する原則が含まれます(ガイドライン1.2.1)。そのため、上記コミットメントを示すため、これらの文書の支持・尊重等を記載することが重要と考えられます。
  • 加えて、そうした人権を尊重していく企業の責任については、国連指導原則やOECD多国籍企業行動指針等が言及していることから、これらの国際文書への支持等を記載することも考えられます。
  • 上記以外にも、自社の活動に特に関連する国際文書への支持等を記載することも考えられます。なお、こうした国際文書への支持等は、事前にそれらの内容について理解を深めた上で記載するのが大前提であり、人権方針策定後はそうした支持等を表明した企業として適切な対応をしていく必要がある点に留意が必要です。

5.人権尊重責任と法令遵守の関係性

  • 企業は、国際的に認められた人権であるかどうかにかかわらず、各国の法令で認められた権利や自由を侵害してはならず、法令を遵守しなければならないことは当然です(ガイドライン1.2.1)。他方で、企業には「国際的に認められた人権」を尊重することが求められるため、ある国の法令を遵守しているだけでは人権尊重責任を十分に果たしていないと考えられることもあります。例えば、ある国の法令やその執行によって国際的に認められた人権が適切に保護されていない場合、企業は、国際的に認められた人権を可能な限り最大限尊重する方法を追求する必要があります(ガイドライン2.1.2.1)。
  • 人権尊重に向けた自社の姿勢を明確にするといった観点から、これらの内容を人権方針に改めて明記することも考えられます。

6.自社における重点課題

  • 人権侵害リスクが生じ得る人権の種類や、想定される人権侵害リスクの深刻度等も各企業によって異なるため、人権方針の策定に当たっては、まずは、自社が影響を与える可能性のある人権を把握する必要があります(ガイドライン1)。
  • 企業は、自社のサプライチェーン等において、より深刻な人権侵害が生じ得るステークホルダーやその人権を認識し、それらに特に焦点を当てた取組を行うことが考えられ、自社の重点課題として人権方針に記載することも考えられます。
  • なお、自社の事業や社会状況等の変化によって、自社にとっての重点課題が変化する可能性があるため、定期的に見直しを行うことが重要です。

7.人権尊重の取組を実践する方法

  • 人権方針は策定・公表することで終わりではなく、企業全体に人権方針を定着させ、その活動の中で人権方針を具体的に実践していくことが求められます(ガイドライン2)。そのため、企業がその約束(人権方針)をどのように実現していくかを記載することが考えられます。
  • 具体的には、例えば、人権DDの実施や救済の方針、ステークホルダーとの対話の実施について、人権方針に記載することが考えられます。また、人権方針の実施状況を監督する責任者を配置することも考えられ、そうした責任者及びその責任の内容を人権方針に記載することも考えられます。

負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価

実務参照資料の概要

「人権DD」とは、企業が、自社・グループ会社及びサプライヤー等における人権への負の影響を特定し、防止・軽減し、取組の実効性を評価し、どのように対処したかについて説明・情報開示していくために実施する一連の行為を指します(人権尊重ガイドライン2.1.2)。人権DDは、定期・非定期の影響評価を通じて、継続的に実施されるべきものです(人権尊重ガイドライン4.1.2.1注61)。

実務参照資料のカバー範囲は、人権DDにおける第一歩である「負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価」、具体的には、自社・グループ会社、サプライヤー等における人権侵害リスク(実際に発生している人権侵害と、生じる可能性のある人権侵害の双方を含む)を確認し、確認された人権侵害リスクの評価を行うことです(人権尊重ガイドライン4.1)。

各ステップのイメージ

実務参照資料に記載されている各ステップのイメージは、図表2のとおりです[ii]

図表2:負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価の進め方

画像2

(実務参照資料7頁 図表2を抜粋)

ステップ①:リスクが重大な事業領域の特定(人権尊重ガイドライン4.1.1(a))

自社の事業のうちリスクが重大な事業領域を特定する際は、社内関連部門(例:営業、人事、法務・コンプライアンス、調達、製造、経営企画、研究開発等)や社外の専門家等と意見交換を行いながら、セクター(事業分野)、製品・サービス、地域、個別企業の視点から、どのような人権侵害リスクが指摘されているか等を確認することが考えられると示されています。

<リスク視点の例/参考資料の例>

  • 企業固有のリスク/各種報道社内資料(苦情処理メカニズムに寄せられた情報を含む)

<確認ポイントの例>

  • 自社のセクター(事業分野)、製品・サービス、又は、自社・取引先が事業を行う地域において、どのような人権侵害リスクが指摘されているかについて、人権侵害リスクの類型、深刻度、発生可能性といった観点から確認。
  • 自社・グループ会社、サプライヤー等において、企業のガバナンス体制の問題や、人権侵害リスクとの関わりについて指摘を受けたことがないかなど、企業固有の状況を確認。

作業シート 負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価(ステップ①/ステップ①記入例
【参考資料(d)】人権リスクの例

ステップ②:負の影響(人権侵害リスク)の発生過程の特定(人権尊重ガイドライン4.1.1(b))

リスクが重大な事業領域について、次の(i) (ii)の確認をします。
(i) 人権侵害リスクを確認
(ii) 確認された人権侵害リスクについて、その状況や原因を確認

実務参照資料10頁は、これらの確認を下表のような方法で行うことが考えられるとします[iii]

<方法の例と確認ポイントの例>

  • 社内資料(苦情処理メカニズムに寄せられた情報を含む)に基づく確認・調査

・    苦情処理メカニズムに寄せられた人権侵害リスクの情報や、過去にサプライヤー等において人権侵害リスクが発生した情報が社内記録に残されていないかを調査し、その状況を確認するとともに同様の人権侵害リスクが再発する状況にないか確認します。

・    契約書等を確認し、取引先との間で人権侵害リスクを防止する取決めがあるかを確認します。

  • 企業(経営者・管理責任者)に対する質問票調査

・     サプライヤー等に質問票を送付し、返送された回答を確認します。

・    例えば、取引先等における人権尊重の取組体制(例:人権侵害リスクの防止・軽減や救済のための仕組み)を確認する質問項目や、人権侵害リスクが発生していないかを確認する質問項目等を含めることが考えられます。

  • 従業員に対するアンケート・ヒアリング

・    従業員に対して、自社内外において、実際に人権侵害リスクが発生していないか、確認します。

・    アンケートから人権侵害リスクが確認された場合、関係する従業員等に対してヒアリングを実施する方法も考えられます。

  • 現地調査・訪問

・    典型的な例として、例えば、現地の従業員の労働環境(安全で健康的な作業環境が提供されているかどうか)を確認します。

  • ステークホルダーとの対話

・    自社業界や調達する原料・調達国の事情等に精通したステークホルダーと対話をして懸念を聴取します。

・    実際に人権侵害リスクを受けるステークホルダーから、被害の状況や人権侵害リスクについて聴取します。

作業シート 負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価(ステップ②/ステップ②記入例)

なお、事業活動の問題の中で問題となり得る人権侵害リスクは多数に上ると考えられることから、その全てについて、完璧に人権侵害リスクの発生過程を特定しようとすることは困難であると考えられます。むしろ、情報収集の正確を期そうとするあまり、防止・軽減を実施する前に実際に深刻な人権侵害が生じてしまいかねません。

そのため、実務参照資料11頁では、一定の初期的なステップ②における調査をもとに暫定的にステップ③の優先順位を付けて、人権侵害リスクの防止・軽減へと進めていく(新たな事象が確認されれば必要に応じて優先順位付けを変更する)という柔軟な対応が重要と考えられることが示されています。

ステップ③:負の影響(人権侵害リスク)と企業の関わりの評価及び優先順位付け(人権尊重ガイドライン4.1.1(c)・(d))

1.人権侵害リスクと企業の関わりの評価

ステップ②で確認された人権侵害リスクと自社の関わり、すなわち、その人権侵害リスクが下表の(i)~(iii)のいずれに該当するかを評価します。

<関わりの評価と求められる対応>
(i)   自社が人権侵害リスクを引き起こしているか
→人権侵害リスクの防止・軽減措置を講ずる必要
(ii)    人権侵害リスクを助長しているか
→人権侵害リスクの防止・軽減措置を講ずる必要
(iii)   人権侵害リスクが自社の事業・製品・サービスと直接関連しているか
→人権侵害リスクを引き起こし又は助長している企業に働きかけて、人権侵害リスクの防止・軽減に努める

上記の(i)~(iii)のイメージ図が図表3です。

図表3:人権侵害リスクの類型

画像3

(実務参照資料12頁 図表3を抜粋)

2.優先順位付け
確認された人権侵害リスクの全てについて直ちに対処することが難しい場合は下記(i)及び(ii)のように優先順位を検討し、この検討により同等の優先順位の人権侵害リスクが存在する場合には、下記(iii)のように対応の優先順位付けを行うことも考えられます(人権尊重ガイドライン4.1.3.1)。

<優先順位と検討内容>
優先順位(i)
人権侵害リスクの深刻度を評価し、深刻度の高いものから対処。深刻度は3つの観点(規模・範囲・救済困難度)で評価。
優先順位(ii)
深刻度が同等な潜在的なケースが複数存在する場合には、発生可能性の高いものから対処
優先順位(iii)
:深刻度及び発生可能性が同等なケースが複数存在する場合には、まず、自社及び直接契約関係にある取引先において自社が人権侵害リスクを引き起こし又は助長しているケースについて優先的に対応することも考えられる。
作業シート 負の影響(人権侵害リスク)の特定・評価(ステップ③)

上記(i)における人権侵害リスクの深刻度の評価における3つの観点(規模・範囲・救済困難度)の詳細が、図表4で紹介されています。

図表4:対応の優先順位付けの判断基準の例

画像4

(実務参照資料14頁 図表4を抜粋)

コメント

これから本格的に取り組む企業に向けて

これまで企業の人権尊重責任に関する取組に本格的に取り組んでいなかった企業においても、実務参照資料を活用して取組を開始することが期待されています。

また、公式な発表はありませんが、実務参照資料のカバー範囲外である、人権DDのうち「負の影響の防止・軽減」、「取組の実効性の評価」、「説明・情報開示」のステップや、「救済」についても、今後、同様の資料が公表されるのではないかと予想されます。

実務参照資料の公表は、各企業にとって人権尊重の本格的な取組の第一歩を踏み出す大きな後押しになると思われますが、更なる取組促進への期待を込めて、人権尊重の取組が与える経営へのインパクトの観点から、取組の必要性についてコメントしたいと思います。

経営リスクの抑制

大前提として、各企業は人権尊重責任に関する取組を行わなければならない理由は、論ずるまでもなく、企業活動における人権への負の影響の防止・軽減・救済を目的とすべきです。

その上で、企業が人権尊重責任を果たし続けることの結果として、次のように社会からの信用の維持・獲得や企業価値の維持・向上に繋げることもできます(人権尊重ガイドライン1.2参照)。

➀     経営リスクの抑制

  • 人権侵害を理由とした製品・サービスの不買運動の抑制
  • 人権侵害を理由に取引先から取引を停止されるリスクの抑制
  • 投資先としての評価の降格、投資候補先からの除外・投資引き揚げの検討対象化等のリスクの抑制

②     取組実施の適切な開示により国内外における競争力や企業価値の向上

  • 企業のブランドイメージの向上
  • 投資先としての評価の向上
  • 取引先との関係性の向上
  • 新規取引先の開拓、優秀な人材の獲得・定着等

なお、上記②については、人権尊重ガイドライン1.2では「プラスの影響を享受する」との文脈で述べられているものの、人権尊重の取組を行う企業が増加するにつれ、競合他社との相対評価により取組が不十分となったときは、「経営リスク」の側面も持つことになります。

人権DDの対象となる機会の増加

自社は、人権DDを行う立場のみならず、取引先をはじめとするサプライチェーン上の企業[iv]やその他ビジネス上の関係先[v]から人権DDの対象者の立場に回ることも忘れてはなりません。

人権DDの対象者の立場に回る場合、質問票調査への回答や、改善が必要と判断され改善計画の確認の対応などを行う必要が生じます。特に、グローバル取引を行う国内企業は、欧州を中心に人権DDの実施とその内容等の開示を義務付ける立法が進んでいることもあり、人権DDの対象者になる機会が増えています。

これらに、都度場当たり的に対応するよりも、自社が主体的に人権尊重の取組を行うことによって、結果的に工数を軽減できる可能性もあります。

専門家の関与

弁護士等の専門家の関与は有効です。

例えば、人権方針の策定の場面では、人権方針の5要件の一つとして「企業内外の専門的な情報・知見を参照した上で作成されていること」が求められ(人権尊重ガイドライン3)、また、人権方針の策定に際し、まず、自社が影響を与える可能性のある人権を把握する際は、「ビジネスと人権」分野に精通した専門家との協議を実施し、自社グループ事業で重要と思われる人権課題を列挙して整理し、その上で、リスクが高いと特定される部分については、その専門家の意見も聞き、その知見を反映させることが例として示されています(人権尊重ガイドライン3.1)。

また、人権DDの場面でも、リスクが重大な事業領域の特定において、社外の専門家との意見交換を行いながら進めることが考えられると示されました(実務参照資料9頁)。

このように、人権方針の策定の場面から専門的な情報・知見の参照や反映、社外の専門家との意見交換を行うことが望ましいです。

さらに、自社が人権DDの対象となる場合に関する視点では、実務参照資料10頁において、社内資料に基づく確認・調査のポイントの例として、「契約書等を確認し、取引先との間で人権侵害リスクを防止する取決めがあるかを確認」することが挙げられたように、日常的な取引契約書の作成の場面から、人権DDの対象となることを見据えた対応が求められるようになっています。
脚注
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[i] 人権方針は、自社の経営理念を踏まえた固有のものを策定する必要があり(ガイドライン3.1)、また、人権侵害リスクの内容も各社によって異なることから、項目例はあくまで例であり、自社の状況等を踏まえ、どのような項目が必要か真摯に検討する必要があります。ただし、下記「3.期待の明示」は、ガイドライン3における人権方針の5要件の③番であり、必要な要件である点に注意が必要です。

[ii] ただし、特定・評価プロセスの途中であっても、例えば、明らかに深刻な人権侵害リスクが確認され、直ちに防止・軽減措置を講じなければ被害の回復が困難と想定されるような場合、その人権侵害リスクに直ちに対応する必要があります(実務参照資料8頁)。

[iii] どのような方法が適切かは、収集する情報の種類等を踏まえて判断されます(ガイドライン4.1.2.3)。社内資料や質問票等の書面調査については、それらにより確認できる内容が限定的であり、また、質問票への回答内容が客観的な事実と整合しない可能性もあることにも留意が必要です(実務参照資料11頁)。

[iv] 自社の製品・サービスの原材料や資源、設備やソフトウェアの調達・確保等に関係する「上流」と、自社の製品・サービスの販売・消費・廃棄等に関係する「下流」の双方を含み、直接の取引先に限られません(ガイドライン1.3)。

[v] 自社の事業・製品・サービスと関連する他企業を指し、ガイドラインでは、例として、企業の投融資先や合弁企業の共同出資者、設備の保守点検や警備サービスを提供する事業者等が挙げられています(ガイドライン1.3)。

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(文責・角川)