2022年2月24日に、ロシアによるウクライナへの軍事行動が始まったことが世界の注目を浴びています。私は、ウズベキスタン国籍のウズベキスタン弁護士で、現在は日本で働いていますが、職業上はロシアの弁護士資格も有しています。そのため、ロシアには友人たちが、ウクライナやクリミア半島には親戚たちがおり、今回の事態に対して、深い憂慮の念と悲しみを感じています。

現在、軍事行動を開始したロシアに対しては、日本を含む多数の国が制裁措置をとっています。その影響は、ロシア国民のみならず、日本国民や日本企業にも及びます。そこで、この連載では、こうした制裁措置による影響も含めて、一般国民や日本企業にどのような影響が予想されるのかについて紹介したいと思います。

この問題を考えるにあたって理解しておくべきこととして、ロシアとウクライナの緊張関係は、最近始まったものではなく、数十年前から火種があり、両国の過去30年間にわたる確執の結果、今回の事態に至りました。今後の情勢を占い、また、対応を考える上で、そういった歴史を理解しておくことは重要です。

そこで、本稿では、まずロシアとウクライナ関係に関して歴史に振り返り、事実関係について見解が著しく分かれているものの、現在に至るまでの流れを、極力客観的な立場から説明いたします。

ウクライナの基本情報

ウクライナは、東ヨーロッパに位置し、ロシアおよびEU/NATO加盟国のポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアに近接しています。

ウクライナとその周辺国の地図
図表:ウクライナとその周辺国の地図

また、北側はベラルーシ、南側はモルドバと東側はロシアと接しており、その地理的関係を大まかに言うと、ロシアと旧東欧に属する欧州諸国に挟まれています。

かつてソビエト連邦の構成国であったウクライナは、1991年にソ連が崩壊した後、国家として独立を宣言しましたが、独立以降もロシアと社会的、文化的ないし経済的に、深い関係がありました。

ウクライナの公用語はウクライナ語ですが、西側の地域を除くと、日常生活では、ロシア語が広く使われています。特に、首都キエフでは、人口の多くが両方の言語をネイティブに話します。さらに、ウクライナのテレビ番組においても両方の言語が一般的に使われてきました。しかし、クリミア半島をめぐる問題などでロシアとの対立が顕在化したことに伴い、2014年2月から、ウクライナ国内ではウクライナ語使用の義務化政策が実施され、生活や教育などのあらゆる場面でウクライナ語使用が義務付けられています。

また、ウクライナは1986年に発生したチェルノブイリ原発事故で知られている国でもあります。当時は、キエフ北部側にあるチェルノブイリ村に所在していた原子力発電所の4号機が制御不能になって爆発し、大量の放射能が遠くの地域まで拡散しました。その被害(死者も含む)は、ソ連時のロシアやベラルーシなどの国々にも及びました。

クリミア半島をめぐる歴史的背景

クリミア半島はウクライナの南部にあり、黒海に面しています。わずか数キロのケルチ海峡を挟んでロシアに面していますが、陸上ではウクライナのみと接しています。2014年のロシアによる併合に伴い事実上ロシアの水域になり、2018年、ロシアのクラスノダール地方との間を結ぶ、全長18.1kmのケルチ海峡大橋が架けられました。

当時、この半島で暮らしていたのは、殆どがクリミア・タタール人(テュルク系ムスリム住民)でした。タタール民族は、13世紀からクリミア半島に住んでおり、クリミア・ハン国を形成しましたが、1783年に当時のロシア帝国に征服され、併合された歴史があります。

1917年にロシア革命が起きた後、他の旧ロシア帝国領と同様に、クリミア内政は極めて混乱した状況に陥りました。1917年から1922年にかけて旧ロシア帝国領で争われた内戦の間、クリミア半島の政権が何度も交代し、クリミア・タタール人、ドイツ帝国の支援を受けたウクライナ人民共和国、ドイツに擁立されたリプカ・タタール人やソビエト政権などによって統治されていましたが、最終的に1921年にロシアソビエト連邦社会主義共和国内でクリミア自治社会主義ソビエト共和国になりました。

第二次世界大戦時には、クリミア半島はナチス・ドイツに占領されましたが、1944年にソ連が激しい戦闘により奪還しました。その後、ソ連の最高指導者であったスターリン(1878-1953)は、ナチス・ドイツの占領軍に協力したクリミア・タタール人がいたことを理由に、クリミアでまだ過半数を占めていたタタール民族と少数民族であるクリミア・ドイツ人を中央アジアなどへ強制的に移住させ、その結果、ロシア人民族やウクライナ人が多数派となりました。戦後は、地域の荒廃とクリミア・タタール人の強制移住に伴う労働力不足などの問題により、クリミア経済の悪化を引き起こしました。

このような問題が続く中で、ニキータ・フルシチョフ共産党中央委員会第一書記(1894-1971)がソ連の最高指導者となりました。同氏は、1954年にクリミア半島をウクライナ・ソビエト社会主義共和国に譲渡しました。

その譲渡の背景には様々な理由があるものの、クリミア半島における大規模な運河(北クリミア運河)を通じて淡水を供給することによって、同地域の経済を再建する目的がありました。正式な文書では、「クリミア自治州とウクライナ・ソビエト社会主義共和は、経済的な共通性や、領土の近接性があり、事業かつ文化においては密接な関係にある」という理由が記載されています。

他方、フルシチョフ第一書記は、ロシア系住民の割合を増やすことによってウクライナの民族構成を変え、ウクライナ民族主義の発展の基盤を崩すとともに、権力闘争においてウクライナ共産党の特権的幹部(ノーメンクラトゥーラ)支持を得ようとしたのではないかという見解もあります。

ソビエト連邦の崩壊・両国の友好関係における初のひび

ロシアおよびウクライナで共産主義のイデオロギーが長年続く中、ミハイル・ゴルバチョフ大統領(1931-)主導によって、ペレストロイカ(民主化・自由化政策)、グラスノスチ(情報公開)といった、ソビエト共産主義イデオロギー統制を緩和する政策が採られました。しかし、これらの政策に反発する保守派勢力が、共産主義体制の復活やゴルバチョフの退任を求め、1991年8月に、「8月クーデター」を決行しましたが、失敗に終わりました。

他方、ロシア国内においては、ベラルーシ、ウクライナとともに、ソ連からの離脱の動きが強まり、1991年に、そういった動きを主導していたボリス・エリツィン(1931-2007)がロシアの初代大統領に就任します。この年に、安全保障・経済・文化、人や物の移動などの面で旧ソ連諸国の協力体制を目指すために、独立国家共同体/Commonwealth of Independent States(CIS)が成立され、ゴルバチョフが大統領を辞任し、ソ連は崩壊するに至りました。エリツィン大統領は、ロシアの発展を追求する政策を進めましたが、当時のウクライナ政府も、ロシア政府と同様の政策を実施しており、ロシアとは自然に同盟国となりました。

1991年12月26日にソ連が崩壊してから2ヶ月後の1992年2月14日、ウクライナはロシア連邦と国交を樹立しました。また、同年、ウクライナは、集団安全保障条約や旧ソ連諸国との軍事同盟に一切参加しないことについて立場を明らかにしました。

ソ連崩壊後、ウクライナは、ソ連の壮大な軍事力と、米国とロシアに次いで世界第3位規模の核兵器を受け継いでいました。ウクライナにソ連の核兵器が大量に配備されていたのは、東からみたウクライナ地域の戦略的重要性を物語るものといえるでしょう。

しかし、1994年に、ウクライナは、同国が核兵器不拡散条約(NPT)に加盟したことを背景に、安全保障や経済援助と引き換えに、一部核兵器をロシアに引き渡したり、廃棄したりすることについて、米ロ英との間で合意をしました(ブダペスト・メモランダム)。また、1997年には、ロシアとウクライナの条約(ロシア連邦およびウクライナ間の友好・協力・パートナーシップ関係に関する合意)により、クリミア半島を含むウクライナの国境保全及び両国の国境不可侵が確認されました。

このように、基本的に安定した関係を築いていたロシアとウクライナでしたが、その間で初めて大きな外交危機が発生したのは、2003年にトゥーズラ島を巡る紛争が起きたときです。

トゥーズラ島は、ケルチ海峡にあるウクライナ領の島で、ケルチ海峡大橋が架けられています。ロシアはこのトゥーズラ島に堤防建設を開始しましたが、ウクライナはこれを、国境線を引き直す試みであると主張しました。この対立は、後に政府同士の交渉によって堤防の建設が中止されたことにより解決されましたが、その際に、両国の友好関係に最初のひびが入ったと言われています。

「親ロシア」か「親欧米」で揺れ始めるウクライナ

2004年にウクライナで大統領選挙が行われました。この選挙では、親ロシア派のヤヌコビッチ氏と親欧米の政治家であるヴィクトル・ユシチェンコ氏の候補が対立したため、ウクライナの政策方向性を選ぶにあたって、最も重要な選挙だったと言われています。

この選挙では親ロシア派が当選しましたが、同年、いわゆる「オレンジ革命」が起こり、大統領選に不正があったことが指摘され、親欧米の政治家であるヴィクトル・ユシチェンコ氏が大統領になりました。その結果、親欧米民主勢力がウクライナの政権を握ることになったことが、ロシアのウクライナに対する政策転換の起点となりました。

ロシア政府は、この出来事を「カラー革命」と呼び、この革命において、欧米の介入があったと非難しました。その後、ロシアから欧州向けの天然ガスパイプラインの供給が数回にわたって停止されることもありました。

現在繰り広げられているロシアのウクライナ侵攻の最大の原因といわれるのは、2008年にルーマニアの首都であるブカレストで開催された北大西洋条約機構(NATO)首脳会議です。この会議でブッシュ元米大統領はウクライナとグルジアの加盟支持を明らかにしました。

ロシアはこれに強く反発し、その結果、ウクライナとグルジアのNATO加盟はブッシュ政権下では見送りとなりました。しかし、その時点から、ウクライナとグルジアの両国がNATOに加盟することが、現実的可能性を持つ問題であることが明らかになりました。

その後のウクライナでは、2010年の大統領選挙において親ロシア派の政治家であるヤヌコビッチ氏が大統領に選ばれました。そのような中、親欧米派勢力は、EUとの経済統合をする方針を決定しましたが、ロシアによるウクライナへの経済的な圧力を理由に、ヤヌコビッチ大統領は、EUとの自由貿易協定締結を見送りました。

ヤヌコビッチ大統領のこの決断は、親欧米派ウクライナ国民による民衆革命に繋がり、ヤヌコビッチ大統領は解任され、同大統領は、ロシアへ逃亡しました。

ロシアがクリミア編入などの行動を起こした背景には、こうした事情がありましたが、その結果、ロシアは国際的に非難を浴びることとなりました。

クリミア併合とドンバス地域における紛争

親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が解任された後、親欧米民主勢力がウクライナの政権を握ることになりました。これに対して親ロシア派ウクライナ国民は強く反発しました。また、ロシア側は、過激派がウクライナ政府を乗っ取っていると非難しました。

このような状況のもと、2014年3月、クリミア半島のロシア併合をめぐってクリミア半島内における国民投票が行われ、ロシアへの併合が承認されました。ロシアは、これをクリミア併合の根拠とし、「併合」ではなく、「統合」と呼んでいます。他方、当時、クリミアの議会がロシア兵によって制圧されていたとの指摘があり、国際社会は、クリミア半島のロシア編入は、ロシアの軍事介入・プロパガンダなどの行為によって扇動されたものであるとしています。

この当時、クリミア半島は、北クリミア運河を通じ、淡水需要の85%をウクライナ本土に依存していましたが、クリミア半島のロシア併合を受け、ウクライナ政府はダムを建設し、クリミア半島への給水を停止しました。これにより、クリミアでは水危機の問題が続いていました。なお、最近の報道によると、クリミアへの給水を阻んでいたダムは、ロシア軍によって爆破されたそうです。

また、当時から、親ロシア派が多いウクライナ東部では、ドネツク州とルハンスク州(総称して「ドンバス地域」といいます。)が独立を宣言することによって、地元の準軍事組織を形成し、ウクライナ政府と対立してきました。ウクライナや欧米諸国が、ドンバス地域における動きの背景にはロシアの関与があり、ロシアの軍事的な協力支援がされていると批判しているのは、よく知られているとおりです。

ウクライナ政府は、ドンバス地域における軍事行動に対して、「反テロ政策」と称する大規模な武力行使をしました。ウクライナは、ロシアはドンバス地域において大規模に軍事力を展開していると主張する一方、ロシアはこれを否定し、むしろウクライナ政府が行っている反テロ政策こそがロシア語圏ウクライナ東部住民の虐殺に該当すると主張しています。この軍事衝突の中、ウクライナ軍はドネツク州のイロヴァイスク地域で敗退し、紛争のピークに至ったといわれています。

そこで、2014年9月にベラルーシの首都であるミンスク市において、ロシアとウクライナに、ドイツとフランスが参加した首脳会談で停戦協定(ミンスク協定)が調印されましたが、この協定は直ぐに破られたと、両国が非難しあっています。

軍事的対立が続く中で、2015年2月、ドイツとフランスの仲介のもと、「ミンスク第2協定」が締結されました。このミンスク第2協定は、ロシアとウクライナの間の紛争解決のための重要な文書でしたが、両国は、再び、当該協定の条項が遵守されていないとお互いに非難し合っている状況に陥りました。

2021年に入ると、ロシアは、ウクライナの国境に軍隊を集結しました。プーチン大統領は、ウクライナなど旧ソ連諸国を同盟に受け入れないよう、かつ、軍事支援を行わないよう、NATOに最後通牒を発しましたが、NATO はこれを拒否したようです。

ロシアは、2022年2月21日、ドネツク人民共和国とルハンスク人民共和国の独立を承認しました。その後、ロシアは、ウクライナを「非軍事化および脱ナチ化」することにより、ドンバス地域の住民を守るとして、「特別軍事作戦」の開始を発表しました。多くの国や報道では、特別軍事作戦は宣戦布告と同等であると受け止められています。

その後、ロシア軍は軍事行動を開始しましたが、ドンバス地域における「非軍事化・脱ナチ化」をしているだけでなく、ウクライナの他の都市や軍事施設にも攻撃を加えているといわれています。実際の現地の状況については、両陣営の主張が大きく対立しており、実際、両陣営の情報戦・プロパガンダの激しさから、客観的状況の把握が困難な状況になっています。

おわりに

ロシアの行動に対しては、国際社会から激しい非難が浴びせられ、多くの国によって厳しい制裁が課されています。次回は、こうした制裁措置による一般国民や日本企業に対する影響について紹介します。

本記事に関するお問い合わせはこちらから

(文責・アザマト・シャキロフ)