職務発明規程整備の基礎知識 (3) – 特許法が定める報償金の支払い
投稿日 : 2024年2月22日|最終更新日時 : 2024年2月22日| 飯島 歩
多くの会社では、社内で生まれた発明を会社が取得したときに、会社が発明者に対して報償金を支払うこととしています。支払われる金銭の名称は、「補償金」のような、発明を取り上げたことを補い、償うニュアンスのある名称であったり、「相当の対価」や「相当の利益」といった対価性を示す名称であったり、あるいは「報償金」や「報奨金」、「褒賞金」のように、より積極的なインセンティブであることを示す名称であったりします(このコラムでは「報償金」と呼ぶことにします。)。
これらのうち、「補償金」や「相当の対価」といった呼び名は、かつて特許法が用いていた用語で、法律で定められた義務に基づいて支払う金銭という意味合いが強かったといえます。一時期は、職務発明の対価を求める訴訟が数多く提起され、会社に対し、発明者に高額の支払いをすることを命じた判決が現れたこともあって、当時の発明報償制度は、企業にとって、多分に義務の履行ないしリスクとしての側面が強かったといえるでしょう。
他方、現在の特許法は、会社が発明者に与えるべき経済的利益を、金銭に限らない「相当の利益」とし、また、報償金体系の設計において各社に大幅な自由度を認めています。もちろん、「相当」な報償をしなければならない点で義務的な面はあるのですが、「相当」かどうかの判断においては、金額よりも手続が重視され、また、適切な手続の基本的な考え方が経済産業大臣のガイドラインによって示されています。
そのため、現在、各社の具体的な関心は、リスクへの対応よりも、ガイドラインに沿った手続運用の中で事業の発展に資する制度を作っていくことに移っています。
ここでは、これまでの法改正の経緯を踏まえて、特許法における発明報償制度の考え方を紹介します。
シリーズ一覧
相当の利益とは
我が国の特許法は、企業内発明について発明者主義を採用していますので、社内で生まれた発明は、発明者個人の財産になります。そのため、会社が特許を受ける権利を自らの権利にしようとすれば、法的には、発明者個人の財産(特許を受ける権利)を会社が取り上げる、という関係が生じます。
そこで、以下の特許法35条4項は、会社が発明にかかる権利を取得したときは、発明者は会社から「相当の利益」を受けることができる、要するに、会社が個人の財産である発明を取り上げるならば、会社は、その発明者に対し、相応の報いをしなければならない、ということを定めています。
(職務発明)
第三十五条 (略)
4 従業者等は、契約、勤務規則その他の定めにより職務発明について使用者等に特許を受ける権利を取得させ、使用者等に特許権を承継させ、若しくは使用者等のため専用実施権を設定したとき、又は契約、勤務規則その他の定めにより職務発明について使用者等のため仮専用実施権を設定した場合において、第三十四条の二第二項の規定により専用実施権が設定されたものとみなされたときは、相当の金銭その他の経済上の利益(次項及び第七項において「相当の利益」という。)を受ける権利を有する。
(略)
特許法が定める相当の利益は、大正10年法の時代には「補償金」と呼ばれ、最初に現行特許法が制定された昭和34年法では「相当の対価」と呼ばれていましたが、平成27年の法改正で金銭以外の経済的利益も含まれるようになったことから、「相当の利益」に改められました。
古くからある職務発明規程には、「補償金」の語が用いられていることがありますが、これはかつての用語法の名残といえるでしょう。また、職務発明の判決では、今でも多くの場合「相当の利益」ではなく「相当の対価」の語が用いられていますが、これは、現時点ではまだ平成27年改正前の特許法が適用される事例が多いからです。
なお、平成27年改正後においても、ほとんどの会社では、金銭による報償制度が採用されています。
相当の利益の算定方法を巡る法改正の背景
さて、ここで問題になるのは、相当の利益の額をどのように決定するか、ということ、つまり、「相当」とは何か、ということです。
発明者へのインセンティブの考え方は、発明者主義を採用する国の間でも異なっており、基本的に当事者間の契約に委ねる米国のような考え方もあれば、詳細な基準が法令で定められているドイツのような考え方もあります。ドイツの制度であれば、法令に任せておいてもよく、また、米国のような制度であれば、個別の発明についてインセンティブを払うのではなく、最初から高額の給与で研究者を雇用する、ということもあり得ることになります。
これに対し、日本では、かつては、補償金の額を契約や内規で独自に決めることもできなければ、さりとてドイツのような具体的な基準もない、という状態でした。判例が、社内規程よりも法律が優先するとの考え方を採用する一方、法律には抽象的な考え方が書かれていただけだったのです。
そのため、いくら社内で規程整備をしてもその定めに基づいて支払うべき金額が最終的に確定することはなく、極端なことをいえば、裁判をしなければ相当の利益(相当の対価)は決まらない、という状況でした。このような法制的問題があったところに、非常に高額の補償金支払いを命じる裁判例も現れたことから、世間では、相当の対価を求めて多くの訴訟が提起されることになったのです。
相当の対価の請求訴訟は、会社と(元)役員・従業員との間で争われる仲間内の紛争となるため、大きな金額が認容された場合の事業へのインパクトはもちろん、たとえ判決による認容額が限定的であっても、訴訟による関係者の負担やモチベーションへの心理的影響が生じます。そのような状況が企業経営において大きな不安定をもたらすことはいうまでもなく、産業界から、社内の算定基準に一定の法的効力を認めることが強く求められました。
手続に着目した相当性判断の導入
このような問題意識に対応したのが平成16年の特許法改正でした。同改正法は、発明を取得した会社が相当の対価(当時)を支払う義務を負うことを前提としつつ、その額ではなく、算定基準の策定から支払いまでの一連の手続に着目し、これらが適切に履践された結果、支払いが「不合理」と認められるものでなければ、職務発明規程の算定基準を法律に優先して適用することを認めたのです。現在、この規定は、以下の特許法35条5項に置かれています。
(職務発明)
第三十五条 (略)
5 契約、勤務規則その他の定めにおいて相当の利益について定める場合には、相当の利益の内容を決定するための基準の策定に際して使用者等と従業者等との間で行われる協議の状況、策定された当該基準の開示の状況、相当の利益の内容の決定について行われる従業者等からの意見の聴取の状況等を考慮して、その定めたところにより相当の利益を与えることが不合理であると認められるものであつてはならない。
(略)
さらに、不合理との判断を受けないための会社の行動指針を示すため、平成27年改正特許法35条6項は、以下のとおり、経済産業大臣がガイドラインを設けることを規定し、これを受けて、平成28年4月22日、一般に「職務発明ガイドライン」と呼ばれる指針が公表されました(詳細は後述します。)。
(職務発明)
第三十五条 (略)
6 経済産業大臣は、発明を奨励するため、産業構造審議会の意見を聴いて、前項の規定により考慮すべき状況等に関する事項について指針を定め、これを公表するものとする。(略)
つまり、かつては「相当」かどうかが金額で決まっていたのに対し、現在の法制度は、各社が職務発明規程で算定基準を設けることを前提に、主に、その手続の状況に照らして支払いが「不合理」かどうかで決めることにし、金額などの実体面は、各社の裁量に委ねたのです。
現在では、多くの会社が、職務発明ガイドラインが示す手続に則って職務発明規程に報償金算定基準を設けており、相当の利益の支払いを求める訴訟が激減する一方、各社の具体的な関心は、リスク回避から事業の発展に資する制度作りに移っています。
不合理性の判断要素
平成16年改正によって、報償金体系の整備や支払いにおけるキーワードとなった「不合理」という言葉ですが、不合理かどうかを決める際に考慮されるのは、算定基準の策定から支払いに至るすべての過程が適切か、といったことです。
その判断において考慮されるべき主な事項として、上に紹介した特許法35条5項は、以下の3点を挙げています。
① 相当の利益の内容を決定するための基準の策定に際して使用者等と従業者等との間で行われる協議の状況
② 策定された当該基準の開示の状況
③ 相当の利益の内容の決定について行われる従業者等からの意見の聴取の状況
これらのうち、①の「協議の状況」は、算定基準策定時に問題になるほか、新入社員への説明の場面などでも考慮されます。
また、②の「開示の状況」は、普段から従業者が基準にアクセスできる状態になっているかが問われますし、③の「意見聴取の状況」については、報償金をどのようなプロセスで認定し、支払っていくか、にかかわるもので、職務発明規程の中で支払手続きを定める際に考慮することが求められます。
他方において、特許法は、支払われる報償金の額の相当性について、明示的な考慮要素とはしていません。
職務発明ガイドライン
上述のとおり、現在の特許法は、報償金の算定基準の策定から支払いまでの全過程、すなわち、基準策定時の協議の状況、基準の開示の状況、支払時の意見聴取の状況といった手続的要素を考慮して、報償金の支払いが「不合理」かどうかを判断する、という構造を採用しています。
そこで問題になるのは、これらの「状況」が具体的にどのように考慮されるのか、つまり、会社は具体的にどのような行動をとれば不合理といわれないのか、という点です。
この点を明らかにするため、上述のとおり、特許法35条6項は、経済産業大臣がガイドラインを示すことを規定し、これに基づき、平成28年4月22日、経済産業省告示第131号として、「特許法第三十五条第六項に基づく発明を奨励するための相当の金銭その他の経済上の利益について定める場合に考慮すべき使用者等と従業者等との間で行われる協議の状況等に関する指針」(職務発明ガイドライン)が公表されました。
職務発明ガイドラインは、行政庁による指針ではあるものの、特許法に直接の根拠を有する重要な指針となっており、各社が報償金制度を整備する際に参照する準則となっています。
報償金の支払いが不合理とされた場合の取り扱い
このように、現行法のもとでは、一連の手続きを考慮して支払いが不合理とされなければ、会社が社内の算定基準を超えた支払義務を負担することはありません。
では、万が一、支払いが不合理と認められた場合にはどうなるのでしょうか。この点については、特許法35条7項に規定があり、主に以下の事情を考慮して相当の利益の内容を定めるものとされています。
① 発明により会社が受けるべき利益の額
② 発明に関連する会社の負担、貢献及び発明者の処遇
(職務発明)
第三十五条 (略)
7 相当の利益についての定めがない場合又はその定めたところにより相当の利益を与えることが第五項の規定により不合理であると認められる場合には、第四項の規定により受けるべき相当の利益の内容は、その発明により使用者等が受けるべき利益の額、その発明に関連して使用者等が行う負担、貢献及び従業者等の処遇その他の事情を考慮して定めなければならない。
(略)
この場面では、もはや手続的要素は考慮されず、また、この規定が適用されるのは、発明者と会社の間に紛争があって、社内の算定基準に基づく支払いが不合理とされている状況ですから、会社が相当の利益の内容を定めることはできません。そのため、この規定の実質的な意味は、会社による報償金の支払いが不合理とされたときは、上記の抽象的な基準のもと、社内規程は考慮せずに、裁判所が相当の利益の額を決定する、ということにあるといえます。
また、この特許法35条7項の規定は、社内に相当の利益の算定基準がない場合にも適用されます。
つまり、不合理とされない手続に則って算定基準を定め、報償金の支払いをしなければ、社内規程を度外視して裁判所が算定した額の支払いを命じられることがある、ということになります。
こうしてみると、適切な報償金算定基準を適切な手続で設けることには、事業に資する報償金体系を導入する、という意味があるのと同時に、裁判所の介入を受けることなく自律的な運用を実現する、という観点からも重要な意味があるわけです。
本記事に関するお問い合わせはこちらから。
(文責・飯島)